昭和56年3月9日 朝の御理解               御理解 第88節                      「昔から親が鏡を持たして嫁入をさせるのは、顔をきれいにする許ではない心に辛い悲しいと思ふ時鏡を立て悪い顔を人に見せぬやうにして家を治めよと云ふ事である。」            
 お道の信心は神も助かり氏子も立ちゆく世界が開かれるそういう 信心である事を先ずしらなきぁいけません。人間が、ただ助かるという事だけではない、神も助かるとう所が、人間がただ自分の都合でいうならば、我情で我欲で信心をするという信心から一歩前進しなければならない。そこから我情を取る稽古も我欲を取る稽古もそして我が身が心徳の中にある事のいうならば神の大恩が分かるようになり神のおかげが分かるようになる。というのですからただ悲しい時の神だのみ的な信心ではないという事です。
 この御教えは等は、私は兎に角自分の都合を場合にはふり捨てなければならない。自分の都合をというものをふり捨てて神様の御都合の為に生きぬかせてもらおうといったようといったような信心が育ってこなければならない。まあこの御理解でいつも頂きますように、黙って治めるという事でも、これは普通一般に云われてきた事で非常にそれに対して私共もある意味での抵抗を感じてきた事でしたけども。おかげが頂かれない、まあ神様の御都合ぢあろうと云われる。もうそれでおおしまいである。どういう御都合でしょうか、どうしておかげ頂かれんでしょうかといったようなものが、残った感じが致しました。
 神様の御都合、本当に勿体ない、この上も勿体ない話であったと思うです。神様の御都合、もう何かおかげ頂かれんとすぐ神様の御都合じあろうで片付けられちゃこっちはかなはん、そんな感じがしておった。所がですわ神も助かり氏子も立ちゆくというおかげの世界を聞かせて頂こうというような信心が出けてまいります時にいうならばね、たまには自分の都合ばかりを云わずに神様の御都合に生きぬかせてもらおうという、いわゆる神様いわゆる神愛に応えまつる心です。自分の都合ばっかりで参りよる信心しよるというのでは、だから今日のここの本当の核心には触れられない。神様の御都合、神も助からず、神様も助かんなさらんから神様にも御都合があるわけ。
 昨日本部の宮田先生が御参拝をしてみえられました。宮田先生あなたは合楽にお出でられておるからというて御相談を受けましたという事であった。というのはビルグイの新田さんから手紙が本部に来ておる。その手紙に、今皆さんが御祈念の時にいわゆる祈念詞ですね。合楽の方から祈念詞をかえるというて、沢山送ってもらったと、所がね今までの大祓や天津祝辞とをしよってから、その急にそんなわけにはいけないと、だから教主金光様にテープに入れてもらって上げてもらってくれと、でなければ、あげられんという意味の事を言ってきたそうです。
 まあいつの場合でも本当に聞きよったら、本当に腹の立つような事もの、ある事ない事ここにも一ぺん手紙が出してこられましたが私は返事も出しませんでした。全部読みもしませんでしたが、もう本当に末永先生も、この人ばかりにはいよいよまあ手をやいておるという感じ。というても見かけはもうおとなしゅうして「はい、はい」ちいうちから、もうえらいその素直なごたる。所が信者の中に手紙を出したり、そのある事ない事云うたり教会長の悪口云うち、教会長婦人のいわゆる公子先生の事の悪口やらもう大分教会の為にいわゆる元のここの教会の息子さんに当る方なんです。もう本当に聞いておってです。
 だから合楽教会の事はその宮田先生あなたがお出でられるからああたにおまかせするから、これからあちらから云うて来た事を相談にのって下さいというその話があったというのです。もうそりあ合楽でも新田さんの為にどの位ある事ない事の悪口を云われたか分からんのです。
 昨日も私それを聞かせて頂きましてからですね、やっぱりあのどうした事だろうかというなら発展を南米布教の発展の邪魔をするような事を云うて、しかも、それを金光様直接直訴するような事を時々云うたりする事があるんですね。いわゆる全く直訴です。成る程昔は直訴の罪が重かったという事をはぢたと思いますね。それがある事ない事ですからね。真実そうというならばってん、そうじぁないです。
 最近ビルグイ教会に婦人の信者が多いのは、その先生がハンサムだからだと、なんか色仕掛けで信者をどうかするといったような事を、ここえ一ぺん云うて来た事があるんです。もう本当に、あのいうなら煮ても焼いてもくえないというような感じの人なんですけれども、私はその事をね、神様にお届けさせて頂いたら『神の都合』と頂いたです。もう私はこれを頂いた途端にです。ははあ神様には神様の御都合があると思うたら、もう心がすっきりしました。
 いうならばこういう所をんなら、黙って治める。それこそ、天の心・地の心で受けなきぁならんといったような理屈がないのです。神の御都合と頂いたらもう一ぺんにこの胸がすっとしたんです。そうじぁ、私共は私共の都合ばっかり云うたり思うたりしとるから、どうしてこういう人が、しかも信者一番中心の中にあるだろうかと、そう思うたけれども、次の瞬間に神の都合と頂いた時に、問題は問題じぁなくなってくるですね。今までかつては私共も思うです。いろいろおかげを受けられんと、自分がおかげを受ける、一生懸命お願いしよるとに、おかげ頂かれんとどうしたこっじぁろうかと、そすとやっぱ神様の御都合じぁろうなと、こう云われると、どういう御都合ですかち云いたい感じがした。何か非常に抵抗を感じたです。これは結局神様の心が知らなかったら、神様の心が分からなかったからで      ると思ひます。
 合楽でこれ程に天の心地の心、勿論天の心地の心 というても人間が幸福になっていくという事の視点に立っての、天の心地の心なんですね。合楽では、とても天の心地の心を説きあかすなんて、出来はしません、けども、人間が幸福に絶対になれれるという観点に立ってのそういう視野からの天の心であり地の心である。合楽で説かれるのは、だから、天の心が分り地の心が分ったら、どのような場合であっても、いうなら神の都合だと云われたらもうそれに理屈もなからなければ全然問題もない。神様の御都合なんだ、又はこちらの御都合で、神様の働きを頂かなきゃならん事もたく山なのですから、だからね、それをなら神様の御都合と私は今まで神様の御都合ならどういう御都合ですか、そりぁ、あんたに力を与えて下さろうとする神様の御都合たいというふうにも申しました。
 けどもそういう事は力を頂くとか、おかげを頂くとかじぁなく無にしてです。神の都合だと、神様の御都合の為ならば日頃御無理を申し上げてばっかり居るのだから、神様の御都合の為にも私共が奉仕しなければならない信心を、いわゆる有難く頂いていかなければならないとという事になりましょうが。親が、嫁入りする時に子供に鏡を持たせてやるのはち、いうのは結局子供の幸せを願うての事なのですよね。その親の心が分る時に、いうならば鏡を前に立てて、自分がここで、ぶっすりがっすりがっすり云うて家の不穏の事になるような事では、嫁入りの時に出してくれた親の思ひというものがに反する事なるわけですから、私共が先ず親の思いを分り神様の思いが分かってくると、どういう、どげん考えても合点がいかん。どげん考えても腑に落ちない。これだけは、我慢が出けないと、例ば云う時でも神の都合であると頂いたらもう全然問題じぁない。
 神様を分かれば分かる程、信ずれば信ずる程、天地の心を分かれば分かる程、だんだん私は、神の都合という事でもう自分の心がいわゆる平静、いうなら安心、皆喜びという事にかえていけれる事が出来ると思うですね。この御理解は、今日改めてですね、その私共の都合じぁなくて神様にも御都合があるという事、その神様の御都合がわからなければ、金光教の本当の信心は出けないという事でございます。                   どうぞ